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一途一心

今日は、CT検査でした。
どうも、検査が近づくと、あれこれと良からぬことも考えてしまい、
気持ちが不安定になるようです。
結果は、次回の抗がん剤治療の外来受診時になるので、それまでは、
なんとなく気がかり・・・が続きそうですけど、気持ちを切り替えていかなきゃ。

27日の日曜日には、かつて一緒に学んだ心友仲間4人 Yさん Mさん Tちゃん 
Yちゃん と Yちゃんの愛娘 Tちゃん 4歳 とお伊勢さん参りに行きました。

昨年12月に初めて伊勢神宮に参拝に行きました。
その時は、参拝客も少なく、初冬の静けさの中、粛々と参拝したのを覚えています。

今回は、初夏の日差しの中、参拝客も多く、観光地のような感じでした。
参道の緑は生き生きと輝き、生命力に満ちていました。
私は、12月に参拝してから、少しずつ、副作用も軽減し、2月には腫瘍も
見えなくなりました。
今は、こうして職場にも復帰できるようになりました。
本当に感謝です。

12月の参拝時には、病を除けるために厄除けのお守りを買いましたが、
今回は、開運のお守りを買いました。

新しい人生を元気に切り開くために。

「一途一心」という言葉があります。
一途一心(いちずいっしん)とは「ひたらすら、ひたむき」ということで、
あらゆる道、あらゆる事を成し遂げる上で、欠かすことのできないことだと思います。

この言葉は、天皇陛下の心臓バイパス手術の執刀医として、東大の医療チームより、
その卓越した技術と実績が認められ呼ばれた心臓外科医・天野 篤氏が
いつも胸に刻んでいる言葉。

(以下、NHK番組 仕事の流儀プロフェッショナルより)
天野心臓外科医の年間手術件数は、400件、手術成功率98%、
手術の鬼と評される。

一瞬のミスが、患者の命を奪ってしまう。”手術できないと思うのが、悔しい。
とにかく闘う。”と、いいきる天野。
月曜日の朝に勤務先の病院にむかい、土曜までそこで泊りこみ、家に帰るのは
日曜という生活を、もう30年以上続けている。

天野のもとにやってくる患者は、他の病院で難しいといわれた患者が多くやってくる。
病院のベッドは、常に満床である。手術用の血管は、体内に9本あるという。
それを使って、バイパス手術を行う。天野の手術法の一つに、「オフ・ポンプ」と
いわれる手法がある。
心臓を一旦とめて人工心肺にきりかえることなく手術をするもの。
それによって、患者の負担も少なくする。

しかも天野が使う針は、通常の半分のもの。それを使うと、理想的な縫合ができる。
細やかだけれど、絡みやすく、扱いが難しい。だから、他の医師は、使いたがらない。
天野の手術の時の姿勢はつま先立ち。上半身から余計な力を抜いて、
心臓と自分のリズムを合わせる。

天野の手術成功率98%を支えているのは、緻密な仕事の積み重ねと、患者の
血管に徹底的に向き合う姿勢にある。決して、妥協をしない。
細かな縫合作業も、“何十年持ってくれるように”作っていく。
毎日、病院に泊まり込み、手術する患者のデーターを読みこむ。

考えられることの全てをシュミレーションする。たまたま上手くいくこともある。
しかし、天野は、“上手くいく必然性をつくる”というこだわりをもつ。

以前は、難しいといわれた超高齢の患者の手術の道を、天野はひらいた。
手術に求められるのは”スピード”。患者の体への負担を出来るだけ減らし、
患者の命をのばすだけでなく、生きる喜びを取り戻してあげる。
自分の技術を引き出す。

妥協することは、「命」に妥協することだと、天野は強くいった。

これからも天野は、どこまでも自分に厳しく、決して後悔しないように、
妥協は一切許さない。命をかけてやってくる患者のために、おごることなく、
自らの技術の向上をもとめて、愚直に前に進む。

なんとなく起きて、なんとなく食事をし、なんとなく仕事をして、
ぼんやりと一日が終わる・・・。

なんとなく生きる・・・そこには生きている証はあるのでしょうか。

ぼんやりとではなく、鮮烈に人生を生き抜くには、この瞬間を必死に生きること。
私は、自分に与えられた目の前のやるべきことに、「一途一心」に
取り組んでいこうと思います。

薬箱に中の12クール目の薬もあとわずかになりました。
なんだか ちょっと嬉しいです。

私は、クールの最初に薬を飲むときには、「2週間よろしくね」と言います。
そして、最後の薬を飲む時には、「ありがとうね」と言います。

今夜も 抗がん剤ゼローダ君は、私のからだの中で、がんと闘っている
ありがとうね。
 


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12クール目 金環日食

今朝の天空ドラマ 金環日食、みなさんの地域では見ることが
できましたでしょうか。

私は、7時30分頃から、太陽と月が織りなす 神秘的なリング状の太陽の光を
見ることができました。

徐々に三日月から形を変えて、リング状になった時、
黄金の指輪が天空に輝く・・・

かつて左指にしていた結婚指輪を思い出しました。

ひとつの環になる・・・ひとつにつながる・・・絆・・・
そして、この素敵な瞬間をともに過ごす人がいたら・・・と思いました。

その瞬間、マンションの玄関先の階段口のあたりで見ていた私の横を、
お隣のイケメン高校生が通り過ぎ、手をかざして太陽を見上げました。

私は、咄嗟に、彼に「これ使って」と私のグラスを渡しました。
彼は、ぺコンと頭を下げて、そのグラスをかけて太陽を見上げ「おっ!すごいっ!」と
数秒見ていました。
そして、「ありがとうございました」とにっこり笑って、私にグラスを返してくれました。
私は、この金環日食を・・・偶然にも、その瞬間をともにできた人がいてくれたことを、
とても幸せに思うのでした。

そして、こちらこそ 「ありがとう」 そうイケメン君につぶやく私でした。

さて、12クール目を迎えました。
慢性化した手の痺れは、相変わらずで、掌は、つるつる テカテカ ヒリヒリです。
そのため、手に力が入らず、いろいろと不自由さが出てきました。

そして、足裏は、水泡が出来ては潰れるの繰り返し。

T先生にそう伝えると・・・
「ゼローダの副作用だからね。減量すれば良くなるけど・・・
減量するとかなり量が減ってしまうから、それも淋しいし。
休薬期間を2週間にするってこともできるけど。うーん・・・。
次の薬の話は、今までのこともあるから(私が受けたくないと言ってきたこと)
言い出しにくいし。
もし、今回、酷い状態になったら、止めていいから。
今後、どうするかは、29日のCT検査の結果で考えましょう。」とのこと。

酷い状態って? なかなか自分の判断で休薬するのは難しいです。

セカンドラインの治療を拒んでいる私にとっては、
今の治療をできるだけ長く続けたい。
少しでも長く再発転移せずに、元気でいたい。
だから、休薬するということは、再発転移のリスクが大きくなるだけに、踏み切れない。
多少の日常生活の支障は、なんとか乗り越えたい。

検査の日が近づくと、不安になります。
自覚症状は何もなくても、もし再発していたら・・・と気持ちが沈みます。

私は元気です。
けれど・・・仕事で疲れていても、元気に振舞っている自分がいます。
周りの人に心配をかけたくない そう思い、だるいからだを
引きずっている時もあります。

T先生の前でも、にこにこ笑顔。
決して、病気を悲観することなく、自分らしく明るく生きる患者を
演じている時もあります。
セカンドライン治療を拒んでいても、治療を諦めたわけではありません。
自分の生き方を大切に生きたい そのための治療を選びたい
そして T先生を信じているからこそ、明るい自分でいたい。

けれど・・・唯一、私が、がん患者であることを思い知らされる時があります。
それは、抗がん剤治療のため化学療法室に入る時。
化学療法室のドアを開くと、リラクゼーションCDが静かに流れ、壁にある花や風景、
動物などの心癒される写真が私を迎え入れます。

そして、さりげなく並べられた抗がん剤治療のパンフレットや、
がん患者向けの書籍が、否応なく、私の瞳に映ります。

私は、がん なんだ・・・。

小さく呼吸をすると、冷たい空気がからだの中に流れ、心が冷えます。
そして、足が重くなります。からだが固くなります。

溜息交じりに、案内されたリクライニングソファに座ると、看護師さんが言います。
「少し元気がないようですけど・・・どうかされましたか?」
「いいえ。あまり明るく笑ってここへ入るのもどうかと思って。」とおどけます。

点滴をする先生が言います。
「疲れているように見えますが、大丈夫ですか?」
「いいえ。いつも、注射が1回で上手く刺さらず、2回3回と失敗されるので、
心配なだけです。」と少し先生を茶化して、笑って答えます。

私は・・・心のどこかで少し無理をしているのかな。
元気で明るい自分を装っているのか 演じているのか・・・。
正直・・・わからない。

アロマの先生から素敵な言葉を頂きました。
「感謝の種を撒いて 感謝の花をいっぱい咲かせましょう」
私は、感謝の種を撒いて 感謝の花を咲かせて 笑顔の実をいっぱい実らせたい。
そのために、私は、明日も元気で明るく生きていきます。

母の日

今日は、母の日。
日頃の母の苦労を労り、母への感謝を表す日。

Wikipediaフリー百科事典によると、以下のような説明があります。

アメリカでは南北戦争終結直後の1870年、女性参政権運動家ジュリア・ウォード・
ハウが、夫や子どもを戦場に送るのを今後絶対に拒否しようと立ち上がり
「母の日宣言」(Mother's Day Proclamation)を発した。

ハウの「母の日」は、南北戦争中にウェストバージニア州で、「母の仕事の日」
(Mother's Work Days)と称して、敵味方問わず負傷兵の衛生状態を
改善するために地域の女性を結束させたアン・ジャービスの活動にヒントを
得たものだが、結局普及することはなかった。

ジャービスの死後2年経った1907年5月12日、その娘のアンナは、亡き母親を偲び、
母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会をもち、白いカーネーションを贈った。

これが日本やアメリカでの母の日の起源とされる。

アンナの母への想いに感動した人々は、母をおぼえる日の大切さを認識し、
1908年5月10日に同教会に生徒と母親達が集まり最初の「母の日」を祝った。
アンナは参加者全員に、母親が好きであった白いカーネーションを手渡した。
このことから、白いカーネーションが母の日のシンボルとなった。

1914年に「母の日」はアメリカの記念日になり、5月の第2日曜日と定められた。

日本では、1931年(昭和6年)に、大日本連合婦人会を結成したのを機に、
皇后(香淳皇后)の誕生日である3月6日(地久節)を「母の日」としたが、
1937年(昭和12年)5月8日に、第1回「森永母の日大会」(森永製菓 
母を讃へる会主催、母の日中央委員会協賛)が豊島園で開催された後、
1949年(昭和24年)ごろからアメリカに倣って、5月の第2日曜日に
行われるようになった。


私も母に、カーネーションを供えました。

今朝、母が亡くなって、初めて母の夢を見ました。
「あ・・・母の夢を見てる」と微睡みながら、時計を見ると5時半でした。
まだ、起きるには早いなぁ・・・と思いながら、ウトウト眠ってしまいました。

母は、いつもよりもきれいにお化粧をしていました。
そして、何か私に語りかけていました。
母は、何を語りかけたのか・・・
5時半に微睡んだ時は、何となく覚えていたのに、目覚めた時は、
思い出せませんでした。

けれど、どことなく険しい顔をしていたことは、覚えています。
母は、何を私に伝えたかったのか・・・。

今日は、2つのお買い物に出かけました。

ひとつ目は、職場の職員さんの結婚式に着るドレスに羽織るショール。
フワフワしたお花のモチーフの素敵なショールを見つけ、ひとめ惚れして買いました。

ふたつ目は・・・
昨年、入院した時に、職場の方から、お見舞いを頂いたのですが・・・
退院後も、抗がん剤治療を受けることになり、職場への復帰も見通しもつかず。
ずっと気にかけていたのですが・・・
快気ともいえず、お返しをするタイミングを無くしてしまっていました。

昨年5月、施設でも最も大切な行事である開設記念祭に、私は、腫瘍の痛みで
参加できず、情けなくて、悲しくて、ベッドの中で、泣いて1日を過ごしました。
でも、今年は、こうして仕事にも復帰し、今月19日に行われる記念祭に
出ることができます。

そこで、大切な記念祭に元気に参加できるようになった今だからこそ、
お返しをしたいと思いました。

頂いた方々のことを思いなから、あれにしようか これにしようか と
ひとつひとつ選びました。

本来、“快気祝い”には、また病気にならないように、残らないものを
お返しするそうです。

でも、私は、職場の皆さんから頂いた励ましや温かい心を忘れたくない。
これからも、頑張っていく私を見ていてほしい。
そう思い、残らないものでなく、身近に置いて使っていただけるものを選びました。
今年の記念祭で、私が無事に務めることができたら、お渡ししようと思います。

今日は、素敵なお買い物ができて、五月晴れの空に心はずむ1日でした。

人生は・・・『撮れなかった写真』

11クール目も、あと2日で終わります。
足裏の水泡がひどなり、足裏全体は、以前から赤く腫れていましたが、
最近は、踵や側面も赤くなってきています。
ヒリヒリ感もあり、少し痛みも出てきましたが、日常的には大丈夫。

皐月、5月に入り、ゴールデンウィークも終わりました。
ゴールデンウィーク中には、交通事故や山での遭難、そして、竜巻・・・
お悔みとお見舞いを申し上げます。

ふっと思い出す言葉があります。
「あなたが空しく生きた今日は、昨日死んでいった人が、
あれほど生きたいと願った明日」

誰にも『明日』という日は、約束されないけれど・・・。
今日、生きたくても生きられなかった人が生きたいと
願った今日を、私はどう過ごすのか。

ある俳優さんが「人生は、美しいアルバムではなく、撮れなかった写真だ」と
言っていました。
とても、印象的な言葉でした。

父や母の遺影のための写真を探した時、弟達が両親と一緒に映っている
写真はあるのに、私と一緒に映った写真はほとんどありませんでした。

「もっと、一緒に写真を撮っておけばよかったなぁ」そう思いました。

けれど、思い出す父や母の顔は、アルバムに納められた写真の顔ではなく、
私の心に映した顔です。

まさに、撮れなかった・・・撮らなかった心の写真です。
アルバムに収める写真はないけれど、私の心に残る両親の生きた姿があります。
だからこそ、すぐそばに父や母がいるかのように感じます。
大切なものは、心の目でしか見えない。
大切なものは、心の中にある。

ふっと・・・母がまだ元気でいた頃のメールを開いてみました。
やり取りを始めた頃のある日のメール・・・

裕子がパソコンを持って来てくれて、使えるようにしてくれて、
教えてもらって、はや2か月・・・
私の楽しみができて)^o^(です。パソコンでメール送ったり、裕子からメールもらうと、
その日の事や出来事をメールで、くれるから、裕子と話、しているみたいで、
ほんと、とってもたのしい(^o^)丿 

裕子が私の側にいるみたい。今日は何から話そうか・・・
なんて思って裕子からメールきてるかなあ・・・とパソコンに向かうとき、
まさにひろこがって来るのを待つてる時の気持ちといっしょ 。・・・・・・

私もコスモスの花は好きな花の1つです華やかさや、はでさは無いけれど、
何かそそとした感じでいいですね 
スズランの花も好き・・・小さくて可愛いい どちらかと、言うとバラとか 
ゆり、ひまわり等大きな花より小花のほうが好き・・・

来年裕子の家の庭にコスモスの花がいっぱい咲くの楽しみに、しています。
私がメール待っているからと、言ってもしょっ中でなくていいですよ。
たまにで・・・ね おやすみ(-_-;)

母がパソコンに向かって、一生懸命、キーを打っている姿を思い出します。
13日の日曜日は・・・母の日です。

昨年の母の日・・・
母は、GW明けに急変し、意識レベルが下がり、ほとんど眠った状態が
続いていました。
両手足に点滴がつながれ、酸素マスクをして・・・。
私は、母の日に、早く、元気になるようにと・・・
黄色いお花のフリザードフラワーを持っていきました。
(病院には、生花の持ち込みは禁止されていましたので)

私は、昨年の5月の上旬に、婦人科クリニックで卵巣腫瘍の診断を受けました。
そして・・・悪性腫瘍の可能性が高いので、すぐに大きな病院へ行って
検査を受けた方がいい。そう言われていました。

ベッドに横たわる意識のない母の手を握り、私は言いました。

「ねぇ・・・私、あまりよくない病気みたい。でもね・・・ママ・・・
ひとりで乗り越えられないことも、ママとふたりだったら、乗り越えられる。
ママ・・・一緒に元気になろうね。ふたりで一緒に頑張って元気になろうね。」

ふたりで一緒に頑張っていきたかった・・・。

私の心の中には、父や母がいつも一緒にいる。そして、いつも支えてくれています。
だから、今年も、母の日には、お花を買い、母に捧げます。

そして、私は・・・父や母が生きたいと願った明日を、
懸命に生きていこうと思います。

プロフィール

さくらのように

Author:さくらのように
仕事にやりがいを感じながら、日々、懸命に生きてきました。
でも、ある日、進行がんを告知され、これからの人生を
がんと向き合いながら、どう生きていくか・・・

何かに向かって懸命に生きるというこは
たとえ、それが叶わなかったとしても
誰かの生きる希望や力になれる

そう信じて・・・。

心からの笑顔いっぱいに生きていきたいと思います。

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